この人を見よ

昨晩、入浴中にまたぞろおバカなアイデアが頭に浮かんで、俺は思わずこう叫んだのだった。
「ユリーイカ!!」
いやいや、そりゃ、アルキメデスじゃねぇか。そうではなく、自分自身のあまりにもくだらない考えに笑いを禁じ得なかったのだ。ああ、俺ってサイコー。
風呂の中で、おっさんが一人、真っ裸でクスクス笑っている図を想像してみたまえ。いやいや、素晴らしい。
何がそんなに可笑しかったのか。それをここで説明しても意味はない。というより、百万言を尽くして説明したところで、それは他人には理解不能なのだ、多分。
18世紀のイタリアの作曲家タルティーニは、夢の中で悪魔がヴァイオリンを弾いているのを聴き、そのあまりの美しさに、起きてからすぐにそのフレーズを書き留めたという。これが有名な「悪魔のトリル」であるが、タルティーニは、夢の中で悪魔が弾いた曲の素晴らしさに比べたら、「悪魔のトリル」など足元に及ばないと言ったと伝えられている。


俺がいくら面白いことを思いついても、それを100パーセント他人に伝えることなど、おそらくは不可能な話だ。俺が感じていることを100パーセント楽しむのは他人には到底無理な話で、それはまさしく俺、俺自身でなければならないのだ。
こんな贅沢な話があるだろうか。俺という人間は、まさしく俺自身のためだけに存在するエンターテイメントなのだ。素晴らしい。
以前から疑問に思ってるのが、例えば「痛い」とか「痒い」とかいう感覚とか、「怒り」とか「悲しみ」とかいう感情が、本当に万人に共通のものなのかということだ。言葉にすれば同じになるし、誰しもそれらの感覚や、感情に対しては大抵同様の反応を示すものだが、果たして他人の感じているそれらが、自分が感じているものとまったく同一のものかどうかは確かめようがない。俺自身は、感覚や感情が万人に共通などというのは幻想だと思っている。おそらく、そんなことはありえない。極論すれば、感覚や感情そのものが幻想なのだ。
以前に、樋口健夫氏の「アイデアマラソン発想法」という本を紹介するのに「自分という鉱脈を掘れ」という文章を書いたことがある。要は自分の脳ミソを使い倒せということだ。自分の脳ミソからアイデアをひねり出すも出さないも、ある物事を楽しむも楽しまないも、自分次第。とにもかくにも、まずは「自分ありき」ということだ。
俺が思うのとは違う感じ方をしてくれる人があるかも知れない、という考え方もあるだろう。しかし、それは一般的にはこう呼ばれているものだ。
「邪道」と。

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